幸せが見えなくなったときに、思い出してほしいこと

考え方

幸せになりたい。

誰だって悩みがあって、後悔があって、不安を抱えながら生きている。

それは決して特別なことじゃなく、みんな同じように揺れながら毎日を過ごしている。

それでも僕らは、どうしても「もっと幸せになりたい」と願ってしまう。

今のままでも十分なはずなのに、なぜか“今より上”を探し続けてしまう。

気づけば、SNSを開いて誰かの生活と自分を比べている。

誰かの成功、誰かの恋愛、誰かの楽しそうな瞬間。

「いいなぁ」と思うたび、自分の毎日が少しだけ色あせて見えてしまう。

でも最近、そんな自分にふと違和感を持った。

■ 幸せは「どう受け取るか」で変わる

ある日、ゆっくり朝日を眺めながら思った。

幸せって、出来事そのものより

“どう受け取るか”で決まるんじゃないか、と。

同じ朝日を見ても、

「もう朝か…」と憂鬱になる人もいれば、

「今日も始まった」と前向きに感じる人もいる。

同じ景色でも、

ある人にはただの繰り返しの毎日に見え、

別の人には宝物のように感じられることがある。

この違いはなんだろう?

しばらく考えてみて、ひとつの答えにたどり着いた。

それは

“何と比べているか”と“どんな感性で受け取っているか”。

■ 人生はどうしても比較の連続

僕たちは、意識しなくても比べてしまう。

収入、容姿、恋愛、友人関係、人生の充実度──。

そして、比べれば比べるほど終わりがない。

収入で比べれば上がいる。

外見で比べれば整っている人がいる。

恋愛で比べればもっと幸せそうなカップルが目に入る。

幸せを“比較”で測ってしまうと、本当にキリがない。

そこにゴールはなく、終わりのない坂道が続いていくだけ。

他人との比較に軸を置けば置くほど、

自分の幸せは遠ざかってしまう。

じゃあ、どこを見ればいいんだろう?

■ “あるもの”に気づけるかどうかで変わる

僕が思う答えは、とてもシンプルだった。

幸せは、“あるもの”に気づけるかどうかで決まる。

たとえば、

・話せる家族や友人がいること

・夜、安心して眠れる場所があること

・仕事があること

・疲れたときに「お疲れ」と声をかけてくれる人がいること

普段は当たり前すぎて見えなくなっているものが、

実はとてつもなく大きな幸せだったりする。

“ないもの”ばかり探して生きれば、幸せには追いつけない。

だけど、“あるもの”に目を向けられる人は、

毎日が少しずつ満たされていく。

これは特別な考え方じゃなくて、

ただの「心のクセ」。

どこに目を向けるクセがあるか、それだけの違いだと思う。

■ 誰かのために動いた瞬間、人は1番幸せになる

もうひとつ、最近強く感じていることがある。

人は、誰かのために動けたとき、

一番あたたかい幸せを感じるということ。

自分のために頑張ったときの達成感とは少し違う。

もっと静かで、じんわりと心が温かくなるような感覚だ。

誰かが喜んでくれた。

誰かの支えになれた。

誰かが「ありがとう」と言ってくれた。

その瞬間だけは、比較なんてどうでもよくなる。

数字でも評価でもなく、ただ“嬉しい”だけが残る。

幸せって、本来こういうものなのかもしれない。

■ 隣の芝生が青く見えるのは当たり前

よく「隣の芝生は青い」というけれど、

それは当然だ。

僕らが見ているのは、誰かの人生の“表面”。

キラキラした部分だけ切り取られた、ほんの一部だけ。

その人にも悩みがあり、不安があり、

誰かと比べて落ち込む瞬間がある。

結局のところ、

みんな同じだけ悩み、同じだけ幸せを持っている。

違うのはただひとつ。

どれに気づけるか。

幸せの“総量”は変わらない。

変わるのは視点だけだ。

■ 幸せは、今日のどこかに転がっている

幸せだけの人生なんてない。

でも、幸せを感じられない人生でもない。

大切なのは、

今日の中にある小さな幸せに気づけるかどうか。

そして、他人の人生と比べるのではなく、

自分の生活を “ちゃんと見てあげること”。

道端の光、誰かの優しさ、温かいご飯、静かな夜。

そういうものは、いつだってあなたの目の前にある。

幸せは遠くじゃなく、

すぐそばに転がっている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました